「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」
エフェソの信徒への手紙 5章1節
神様にならうって、どういうことでしょうか。それは神様がどのような方と理解しているかに関係すると思います。
旧約聖書の神様の相対的なイメージは、父なる神、怒りの神、救いの神様でした。時には妬みの神などと表現する聖書学者もいます。度重なる試練の中で、人々は神様のことを忘れ、自分の喜び、満足だけを求めて異教の神様に心奪われたということで、神様はいつも怒っているように感じられます。怖い神様、嫉妬深い神様というイメージが強く、近づきがたい感じです。
でも、よく考えると、聖書はイスラエルの人々が長い歴史の中で紡ぎだした書物ですから、「神様は怒っておられる」というよりは、「神様は怒っておられるに違いない。」という人々の思いの表れだと理解する方が本当のような気がしています。人々は自らの信仰や、不条理、苦難の続く現実の中で、神様は自分たちに失望しているに違いないと、心のそこから感じたのだと思います。だから、聖書に伝えられる神様はいつも激しい言葉で人々の不信仰を非難します。でも、それは人々の自分たち自身に向けての言葉だったのだと思うのです。
聖書は、神様の怒り、妬みを語りながらも、同時に徹底して人間の弱さ、不完全さを受け止めてくださる、本当に我慢強い方としても伝えられています。これも、様々な挫折や悲しみの歴史の中で、人々が心の底から感じた神様のイメージだろうと思います。
「天の優しい神様・・・」と毎日お祈りするこども園のこどもたち一人一人の心の中に、いろんな悲しい思いや、不安が彼らを取り巻くときにも、「大丈夫。やさしい、やさしい神様が見守ってくれてるから」と確信する心が育つことを願っています。1年が終わり、新しい年度に向けて、園を巣立つ卒園生一人一人が、これからも守られ、支えられますように。
こども園宗教主任 荒谷出