今月の聖句 11月
「わたしの隣人とはだれですか。」
ルカによる福音書10章29節
今から10数年前に「モリー先生との火曜日」という本が出版されました。アメリカのボストンの大学の卒業生と大学時代に彼が尊敬していたモリー教授との心の交流を描いた実際にあった話です。モリー先生は、学生たちとディスコで踊るのが大好きな陽気で活動的な先生でしたが、十年後に筋萎縮性側索硬化症(通称ALS)という病気にかかって余命数ヶ月と宣告されます。
モリー先生の最後の授業、それはモリー先生自らが介抱してもらう幸せに生きた中から気づかされたものでした。モリー先生が一人の卒業生に次のようにささやきます。「人生の初め、わたしたちが赤ちゃんの時、私たちはほかの人の助けを必要とするよね。そして、人生の終わりの時、もし、君がぼくのような状態になったら、君はほかの人の助けを必要とするだろう。でもね、ここに人生の奥義がある。人生の初めと終わりだけでなく、実はその間においても、私たちはほかの人の助けを必要としているんだよ」
さて、ルカによる福音書の「善いサマリア人のたとえ」では、ひとりの旅人が追いはぎに襲われ、半殺しにされて倒れます。そこを通りかかったサマリア人が彼を助け、傷に包帯をし、宿屋に連れて行って介抱します。この聖書のみ言葉を読むとき、わたしたちは道に倒れている人に出会ったら、この物語のサマリヤ人のように、躊躇せず助け、その人の隣人になるよう勧められているように思ってしまいます。私たちは、この物語の登場人物の中で、誰なのでしょうか。実は、私たちは、祭司ではなく、レビびとでもなく、サマリヤ人でもないのです。私たちこそ、この物語のなかの「傷ついた旅人」なのではないでしょうか。
とかく私たちは、人を助けることばかりに熱心です。けれども自分の傷ついた心や自分の心の奥底にある叫びに気づくことこそが、まず大切なのです。そして、自分自身がイエスさまによって、十分に癒されて初めて、自分と同じ傷ついた旅人をもてなすことができるのです。
モリー先生が、妻や家族や友達の愛の介護に自分自身を委ねる経験の中で人生の幸せを実感したように、わたしたちもまず初めに、このイエスさまというお方に大切に介抱され、支えられている幸せを、感謝しつつ、私たち一人ひとりが癒されて、豊かな人生を歩んでいきたいものです。
共愛学園こども園の子どもたちもこのイエスさまに信頼して、どんなことがあってもイエスさまに支えられていることを喜び、お友だちと一緒に神さまから与えられたいのちを精一杯生きる毎日を過ごして欲しいと切に願っています。
園長 押川幸男
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