今月の聖句 5月
「これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える」
マルコによる福音書 12:11
聖書の伝えるメッセージで最も難解なのは十字架の意味かもしれません。キリストが私たちの罪を代わりに背負ってくださったという伝統的な理解も、なかなか腑に落ちない説明と感じられる方も多いのではないでしょうか。
考えてみると、人生で理解不能な出来事はたくさんあります。家族の関係、こどもとの関係、そして子育て中の方々には、こどもが願う形で成長していることが感じられなかったり、様々な出来事に悩まされたりの連続です。そんな時、私たちは私たちのものさしで結果を判断したりこどものことに失望したり喜んだりしていたことに気づかされることもあるのではないでしょうか。
もし神が本当に存在し私たちとともにおられるというのなら、今世界中で起こっている不条理をどう理解すべきなのか、今自分が思い悩む子育てのなやみをどう受け止めるべきなのか、迷うことしばしばです。
イエスの復活を伝えた人々も、イエスの生きざま、そして十字架上でのみじめな敗北の死を目の当たりにして途方にくれたことでしょう。そしてそれはイスラエル民族が、彼らの苦難の歴史全体を通じていつも感じていたことともつながっていると言えます。
イザヤという預言者が伝えた言葉を、イエスが再び人々に語ったのが5月の聖句に取り上げられている箇所です。「今、あなた方のものさしで思い通りにことが運んでいなくても、それでも最後にはそのことがあなた方のいのちの価値を奪うものではない。かならずそこには意味があり、そして価値がある」とイエスは語られているように感じます。
私たちのものさしで結果が見えなくても、たとえマイナスだと思ってしまうことでも、その体験や資質こそがこどもたちの人格をかけがえのないものとして形作っているということを歴史の知恵として人々は伝えてくれていると思います。
そして、イエスは、そのことを受け止め、喜びと希望のうちに過ごしなさいと教えているように思います。イエスの十字架の死という結果に、絶望と暗闇しか見いだせなかった人々が、いやそこで終わりではなく、イエスは今も私たちの生きる希望の根拠として生き続けられているのだと気づきました。まさにそれがイースターメッセージの根幹だといえます。
こどもたちの成長をそのような視点をもって見守り続けられることを願っています。
こども園宗教主任 荒谷 出

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